昭和42年8月30日 朝の御理解


 信心に一番大事なものは辛抱だと思います。信心辛抱と、信心辛抱が出来なければ良い信心は頂くことは出来ません。
 信心に依って助かると云う様なこと。只信心が三年続いておる、五年続いておると云った様なこと位で、信心によっての助かりはありません。それは十年は二十年かかりましてもね、いや一生かけてからもそうでございますから、信心は辛抱が第一でございます。
 勿論、只辛抱するじゃなくて信心辛抱ですね。信心によってでの辛抱でなからなければなりません。
 信心辛抱。例えば御神意を伺わせて貰う。神様に学校なら学校へ、どの学校へまあやらせて頂いたら良いだろうかと、神様あのこの学校ならこの学校と云う風に頂きますと致しましょう。そして一ぺん受けけれど出来なかった、ね、神様の仰るところを受けたばってん、出来じゃったと云った様なことじゃなく、もう少なくとも三べんは続けにゃいけません。御神意を頂いたら、ね。その三べん続けて行く内にです、はあ成程、成程と云う様なそのおかげを受けられるもんです。 成程こう云う神様の御神意があってのことであったんだなあと、成程、一ぺんで出来ておったらこう云うおかげを受けられなかっただろうにと云う様にですね。そこんところが大事なのです。二へんまたいけなかった。それでももう一ぺんとこう一心を貫くと云うこと。 
私昨日、或方の就職のことのお取次をさせて頂いた。勿論、御神意を頂いてどこどこと云うことであったから、どこどこというところに就職試験を受けた。ところがまあ何と申しますか。学科とか面接とか色々あります。その一方は出来たけれども、一方が出来なかった。又夕べこんな風でしたからとお礼のお届けがあった。出来なかったと。そん時頂ますのは「桑の弓」と云うことを頂きました、ね。
 女の一念岩をも通す、桑の弓と云う様なことを申しますでしょう。しかもそれはもう、桑の弓と云うことを頂いてその桑と云う字をね、特に印象的に頂くんですよ。一つのことを一心を貫くと云うこと。それは岩をも突き通さねばおかんならんと云う、その貫かせて貰う精神が大事な訳です。そこが信心辛抱がいる訳です。桑と云う字を分解してご覧なさい。又又又木と書いてある。ね、又だめだ、又だめだ、又だめだと又同じことを繰り返して行きよるうちに木は心、そういう心が大事。信心させて頂いて、そのそこんところがもう本当に後で考えて見ると神様の御神意、御都合の深さ、広さその思いの有難さにいよいよ感激しなければおられない。感動しなければおられない。 
これはあの熊谷さんところの御長男の則男さんが大学受験の時でございました。もう浮羽高校では何時も一、二を争う程に、まあこの二人が出けんなら出けん。まあ出けんことないと云う様に太鼓判を押された様な、その大体は勉強も出けとったし人物も立派でした。 ところがですね、受けても受けても又駄目だった。おかげで三回目でしたか出けました。そして思うことがございました。そして卒業してから思うことがございました。そして結婚生活に入って又思うことがございます。もうそれが続いてなんですよ。あれが1年間でもずれておったらです、早う出けておったらこういうおかげは受けられまいと云う様な事柄なのですね。
ですから、もうあれだけ親先生にお願い申して頂いてから、あれだけ私も一生懸命になったのに、しかも出来なかったと云うてあれを信心をおろそかにしておったり、迷っておったら現在のおかげは受けられておりませんですよね。ですからそこんところの辛抱が「桑」又、又、又落ちた又落ちた。まあそのそういうその例えば、桑の弓を持って岩をも貫こうと云う様な一つの一心が大事だ。そこを信心辛抱だ。只辛抱するのじゃない。その間を何処に御神意に叶わないことがあるだろうか、何処を私共は間違って居ったであろうかと、例えば三年間なら三年間かかったところの間に、分からせて貰うところは分からせて貰い、おかげを蒙らせて貰うところは蒙らせて貰うてから、成就のおかげ願うたら、スルスル順調におかげを受けると云うことだけがおかげではございません。
 これは、信心が出来ておればでけておる程、そういう傾向がありますのですね。
 もう信心が分かん者、何も分からん者の場合は、そこんところはそんな問題はない訳です。何とはんしにおかげを頂いたとサラサラとこう行く訳ですけれども、それでは只そのことがおかげ受けただけのこと、後のおかげにつながってない。
 皆さん、こういうところをですね、一つ良く信心辛抱の信心が出けておらんと折角のそういう神様の深い広い思いでのおかげを下さろうとしておるおかげを頂くことが出けんのですね。
 第一信心には辛抱が大事。次には思い切りが大事です。思いきり。それは今日は私は本当に助かるということの為にはという話をしているのですよ。 信心辛抱に依って只それが何十年続いていますと云うだけじゃあなくて、もう信心辛抱させて頂いて行く内に自分も立派になっていく。心も改められていく。磨かれてもいく。そういう辛抱が続けられて行く内に本当のおかげが受けられて行く、ね。そういう辛抱を続けさせて頂いて行く内に信心の力も出け、度胸も出けて行く。いよいよ思い切りが出来て來る。なかなか思い切りが出けませんですね。
 例えば、お道の信心は迷信打破の信心だと云われております。
先日も、ここにもある御信者さんが、今度息子さんのお嫁さんを迎えられるのです。十月に日取りも大体決っておったのです。けれども、いろいろしよったところが、どうも良い日が無い。そこで十二月まで延ばしてくれと、どういう原因かと云うと、良い日がないからと。話を聞けば聞く程只驚くばかりですね。
 何かあの茶ぎものを買いに行くのにも日柄が良い日でなからなければいかん。もう何をするにも暦を見てから日柄がよからなければいけない。まあ、私としては云うならほんに馬鹿の様な話なんだけれども、それを思い込んでおる。若い者夫婦はもう早う結婚しようごとしてこたえんなおる訳です。そこですよね、もう、その筈です。
 ところが、その親がそう。片一方は信心があるからそんなことは問題じゃないですと云うけれども、そういう訳にはいかん。
 ところがまあ、十日そのまあ、にくじの様なものですね。十月十六日が日が良か。そんならこの日にしてくれと。ところがこっちは他の時なら何時でも構わんけれども、十月十六日だけは絶対どげなこつがあったっちゃ出来ませんとこういう訳です。それはそうですよ。ここの秋の御大祭ですからね。十六日というのは、十六日は良か日。それは絶対出来ん。それはこちらの勝手。これはいわば偏屈でもなからなければ迷信でもない。年に一回の秋の教祖大祭にです、例えば、それが如何に喜び事であっても、その為に家族中の者がお参りも出来ないと云った様なことでは相済まんとこう思うから、その日だけは出来ないと云う様にですね、一つの事がスムーズに行く筈の時にでも、これでも例えば、そういう迷信と云うものに捕らわれておりますと、もう実に窮屈な狭い生活しなければなりません。
 皆さん金光様の御信心するなら、そこの所の迷信を打破しなければいかんのですよ。もう愚にも着かないことなんです。
 そればってんですのや、悪か日にどんしてから、ひょっとして悪か事どんあったら笑われるけん、やっぱ昔から云うちゃることはせにゃと云うごたるふうな。もう詰まらんことで私はこのそれを外しきらん。その迷信を。家を建てると云やあ、こう建てれば使い勝手が良いのだけれども、ここに金神様がござるけんで、ここに便所は造られんとか、ここにはかまどは造られんとか実に愚にもつかないこと。 使い勝手の良いのが一番良いのだと。けれど、どんなに良い日だ、今日は黄道吉日だと言うても雨が降ったり風が吹いたりするから、それは良い天気ではないのです。いや良い日じゃないです、ね。 言うならね、天地の親神様の信心をさせて貰う、金光様のお取次を頂いてから、日の善し悪しがあろう。言うなら筈がない。これをですね、もう本当に十年信心しよったっちゃ、そこんところを外しきらん人があります。大体はね、迷信を言うことは神様に対して御無礼になる。それでも外しきらん。ね、そういう例えば迷信を打破していかねばならない、ね。それでもそれを外すと云うことはです、なかなかやはり習慣とか習性と云うものが私共にはありましてですね、それを今までの暮らして来ておった癖でも、一つの癖でも悪い癖でもそれを外すと云うことはなかなか出来ません。
 信心に信心辛抱が第一であります様にです、その内容としてのこのいけないものを外すと自分の中からこれを取り除かなければおかげは受けられんと云うことが分かったら、思い切ってそのことをはっと放せれる元気な心がいる訳です、ね。それからと云うてですね、もう信心も何も分からんのに、もうすぐ改式でもしたいと云う様な人があるのですよ。もうそげんとに、信心が続いた人がありません。もう一ヶ月か二ヶ月かそのお参りして來よってですね、はあ金光様の信心の有難いことが分かりました。どうぞ改式して下さい。今迄仏教じゃたつを金光様の信心に切り替えて仕舞う。信心も分からずにそういう様なことをしてですね、おかげを頂ける筈がないです。
 信心がよーと分かれば分かる程、そうしなければおられんと云うものでなければならんのです。だからいきなり改式は出けんと思いますね。
 先祖伝来仏教で先祖を奉ってきた。それを一ぺんにポンと外してしまうね。かと云うて十年信心をさせて頂きよったっちゃ、まだそこが分からんと云う人があります。
 やっぱり神様を麗々しゅうお奉りをしておるけれども、やぱり仏壇もちゃんと買うてお奉りしておる。して南無阿弥陀仏と言うたり高天原にち言うたりして、こういうのが非常に詰まらんと思いますですね。けれども外し切らん。外し切らんと云うのが分かっていない。本当のことが、かと云うて分からんなりに外しよったら外し損なう。金光様の信心も良うない。もうお寺さんも断わっとる。さあどっち片つかずになってしまう。ね、
 思い切ると云うことは、どう云うことかと言うとですね、丁度、飛行機に飛行機からのパラシュートを持って飛び降りるでしょう。あの位の思い切りが必要なのです。まあなかなか思い切れませんですよね。あの高いところから飛び降りるというのですから、ね。
 ところがパラシュートの降下練習をしておる。飛び降りる稽古をしておる人達は、日に何回かとはなしにその稽古をやっております。平気で、やはり稽古なんです、ね。私が分かりもせんなり、余り先に話よるとやり損なう。〇〇教じゃないけれども、ね。それこそ、家も屋敷も外してしもうてから、とうとう教会の隅の方でお世話にならんなんち言うごとなって來る。あんまり早く分かりもせんな外しすぎる。それは丁度思い切ってから放した訳です、ね。ところがです、思い切っって飛び降りたです、とこがそのパラシュートに穴があいとった様なものですね、きっと。ですから飛び降り損うとる。いわゆる本当の助かりにはならなかったのです。
 本当の助かりということ。その為には自分の持っておるそのパラシュートがですね、落下傘です、ね、それが確かめた上にも確かめて、これなら必ず開く、これならば穴がほげてはいない。飛び降りれば必ず助かるという、そこんところが分かって出けてから飛び降りるね。先日からも私どものお祭りをさせて頂いたところ、今迄はやっぱり荒神様とか大神宮様とか色々様々な神様がお祭りしてある。だからそれもお神様をお祭りした以上は、もう大神宮様をお粗末にすると言う訳じゃない。荒神様をいらんもんと言うのじゃない。天地の親神様の中に包合されたもの、何々様、かんなん様と云うのがある筈がない。天地の親神様の中に包合された神様であるから、煩わしい様々なものは、もう焼き付くさせて頂くからこちらへ持って來るからと云うことであった。家内と主人とおばあちゃんはそれを承知された。ところがおじいちゃんが言われる。まあ一時待ってくれんね、今迄拝んできよったのじゃけん。一ぺんに取られて、どうか寂しいか。しかし、これはもっともな話だと思うです。おじいちゃんは信心が分かられんのだから。話を聞けば理屈は分かるけれども、外すとになかなかまだ外しにくいと云うのです。
 これはですね、いわゆる自分のその外すとにパラシュートにです、穴がほげておらんかと確かめる為の、だからこれは、おじいちゃんが言われるとが本当じゃから、もう暫く待たせて頂いて金光様の御信心の本当の有難いこと、天地の親神様の御信心内容と言うものが分かって、成る程大神宮様もなければ荒神様もない、その中に大神宮様を粗末にすると云うのじゃない。荒神様を軽蔑するのじゃない。そういうものがその中に包合されておるんだと云うことを、本当の信心が分かってからで遅いことじゃないよと、私申しましたことでございますけれども、ね。
 信心させて頂くならここんところがスキっとしなければ駄目なんですね。スキッと外さなければ、だけの信心が出来なければね。
段々信心の祈りの内容も変わって來る。信心を続けて行きよる内に、もう本当に自分のことばっかり、自分の家のことばっかりを一生懸命にそれが願うていけんのじゃないのですよね。願わなければいけんのです。けれども段々信心させて頂きよると自分のことよりも人のこと、ね、いやもっともっと大事なことをいのらなければいけないことが分かってくる。信心が分かってきたらね、それでいて自分の事を願わんから自分のおかげを頂けんかと云うと頂けるのです。
 本当の助かりと云うことは、そこにしかないのですね。段々信心が分かって來ると、いわゆる天下国家のことまで祈らずにはおられんのです、ね。これは久留米市全体のことを祈らせて頂いたら、久留米市全体の中にここに合楽はあると云うこと。合楽の中に私の家もあると云うこと。ですから、大きなことが本当に祈れれる内容を頂かなければ出けんと云うことが分かるでしょう。ですから、自分が今祈っておることのその実感がです、まあ自分はこげん細かいことだけしか祈れない自分であるから、信心が如何に細かいか小さいかと云うことを一つ悟らにゃいかんです、ね。いよいよ神心となりてとこう仰る。神心が段々強うなってくると誰彼のことが祈らなければおられんごとなってくるのですよ。それに自分のことだけが一生懸命気といってる時には、ああ信心がああまだ小さいな、おかげの枠はこの位だと自分で悟らなければいかん。そして、ね、神心の強うなって行くことを、先ず願わなければいかんと云うことが分かりますですね。
そうでしょうもん。例えば、ここに総代さんなら総代さん方がね、本当にこのお広前のことを中心に祈らせて頂くと云うこと。そこに私は本当の豊かさと云うかね、ここのお広前に本当に一人一人の信者の繁盛が願わせて頂く中に、例えば、んなら秋・・(テープが消えている)・・・・
 その中に真珠貝と云えば身は食べられんに致しましても、中に真珠のあの宝石の光を持ったものが段々大きくなって行きよる。食べる為ではなく、おかげの為じゃないね。自分自身の心に中にその有難い信心の玉が光を放って行く。それが大きくなって行くことが楽しみに。それには今云うように総代さんに限ったことじゃないですけれどもです、合楽を中心にとにかく合楽全体の御簾を奉ることの為に祈らせて頂いて、そこに出て來ることの信心の玉の様な信心の喜び、信心の徳というものをです、親先生に見て頂いたり差し上げたりするところにです、親先生が喜んで下さる。そういう御用の為に行くのであるから八十になったっちゃ九十になったっちゃ、これならいよいよ出来て行くだけなんです。わざわざすることも何もいらんね。どうぞ、私が終生、私が死ぬまでこの御用だけはさせて頂きたいと云う様な願いを持っての信心にならなければいけないじゃないかと云うお知らせなのです。
 自分の小さいおかげ、自分が動けんごとなったから、もう寝とってからでも出来るもん。手足が動けんごとなって寝てからでも総代としての御用は出来るのですね。総代さんはどんどんお供えしなきゃ、総代さんの資格はなか。総代さんは何かの御用の時には率先して出て行かなければ総代の資格はなかと云う様な頂き方ならばそうかも知れませんけれども、ね。祈りを中心にした、心を中心にした信心を中心にしたところの私、総代さんであるならばね、それこそいくら五十三になっても、おばあさんになってもいよいよそこんところが出来て來るようになるんだと云うこと、ね。
 ですから例えば、今日私は信心辛抱、一番大事なことは信心辛抱と申しましたが、信心辛抱させて頂いている内に私のことから人の事、人の事から教会を中心にしてと言った様なことがです、本気で祈れれる。その為の修行、その為の信心が出来れる様に段々向上して行かなければならないと云うこと、ね。その間には放さなければならない。思い切って、いわゆる放さなければ助からないと云うこと。それを一つのやはり飛行機から飛び降りる位なやはり一つの決心、そういう勇ましい心が必要であると云うこと。ね、その中に迷信を外すと云うことにでもやっぱり元気がいると云うこと。迷信を外さなければ人間は助からん。迷信に縛られてしまう。広い世界を狭くしてしまうね。先ず我情を外すと云うことが難しい。我欲を放すとと云うことも難しい。けれども我情我欲を放さなければ本当の助かりはない、ね。自分の小さい願いと云った様なものでも捨てる。これもなかなか、はあ自分のことを自分で祈らなかったら誰が祈ってくれるじゃろうかと思って、やっぱり放しきらん。それが信心が分かってくればこれ程に自分のことなんか、私共は一時間なんぼ信心するばってん、私のこと、私一家のことをまあ願うたことはまあまあないです。自分の子供の事を願ったこともないことはないですよ。ね、場合にはありますよ。又各々がお取次頂きますとお願いしますけども、先ず御祈念の中にどうぞ、大坪の家、一家が云う様なことは一ぺんもありません。けれども、大坪一家が助かっておるじゃないですか。私のことを願ったことはないですけれども、おかげを頂いているではないですか。ね、けれどもそれを外すと云うことはです、信心が分かってくればです、外せる。では思い切って外さなければならない時にです、自分達のんなら、パラユートが破れておったり、穴がほげておったりしたんではです、飛び降り損なう様なこともあるから、これを確かめ確かめして行かなければならないと云うこと。ね、そして思い切って思い切りが第一。ですから、その思い切って飛び降りる。落下傘が開く。そこにあなたは助かっておると云うことになってくるのです。ね、私本当の助かりを求めて皆さんが信心の稽古をなさるのに何と云うても第一必要なのは信心辛抱なんです、ね。信心辛抱の内容は只今私が申しました様な事柄が内容となっての辛抱に成って行くと云うこと。信心が一段一段と高められて行くところのおかげになって来なければならんですね。
 どうぞ。